小神野 貴之宅地建物取引士 主任 不動産投資コンサルタント

かつて注いでもらった愛情を、今度は自分が他者へ受け継いでいく。

小神野貴之

今は亡き祖母の存在と学生時代の成功体験

私は茨城の自然豊かな場所に生まれ、両親と妹、祖父母の6人家族の家庭で幼少期を過ごしました。両親が共働きだったこともあり、祖父母と過ごす時間が長かったのですが、特に私にとって大きかったのが、今は亡き祖母の存在でした。

私の祖母はとても厳しい人だったので、やんちゃな子供だった私はいつも叱られてばかりいました。激怒した祖母に木に縄で縛り付けられたり、古い井戸に閉じ込められたのも、1度や2度では ありません。

そんな厳しい祖母でしたが、実は心の底から私のことを思ってくれていて、どれだけ怒らせてしまっても、最終的に私を見放すことはありませんでした。厳しくも温かい愛を注いでくれた祖母の存在は、無償の愛のありがたみや尊さを、私に教えてくれました。

小さい頃から運動が得意だったこともあり、小学校からは地元の少年団に入ってサッカーに打ち込みました。ポジションがフォワードだったので、ゴールを決めるとヒーローになれる。その高揚感がたまらなくて、一生懸命練習に取り組み、成果を出すことができました。努力すれば結果がついてくるということを、この時、身をもって体験しました。

高校でもサッカー部に入り、厳しい監督やコーチのもとで、技術的な指導はもちろんのこと、上下関係から生活態度まで、徹底的な教育を受けました。練習がキツすぎて救急車が来たこともあるくらいの過酷な環境でしたが、それでも本気で自分と向き合ってくれる指導者の存在に「一生懸命やっていれば、見てくれる人はいるんだ」ということを理解した青春時代でした。

小神野貴之

人生で一番の挫折の瞬間

高校卒業後はというと、必死に勉強して進学した大学でしたが、厳しいサッカー環境から解放された反面、生活に充実感が無くなり、やりがいを失ってしまいました。そのまま惰性で過ごすのが嫌だったことや、引き続き体を動かすのが好きだったこともあり、親戚の影響もあって競輪選手になることに決め、1年で大学を中退することになります。

競輪選手になると決意してからは、プロの選手につきっきりで教わったり、毎日朝から夜まで死ぬ気で練習する日々を続けました。プロになるためには、競輪学校の厳しい入学試験をクリアしなければならなかったからです。

しかし、競輪学校の試験は想像以上にハードルが高く、2次試験に何度も進みながらも、最後の最後で不合格ということが続きました。それでも3年間は歯を食いしばって努力を続けたのですが、当初同じ志を持っていたはずの仲間達がだんだんと夢を諦めて就職していったり、高校時代の同級生が社会人として活躍する話を聞いたりする中で、自分自身の中にある不安の感情が、頭をもたげるようになりました。

そんなもやもやとした日々を送る中、試験で不合格を告げられた時、目の前が真っ暗になり、ポキっと心が折れてしまいました。そしてこれ以上続けることはできないという結論に至りました。これまでは「努力すれば結果がついてくる」と信じて疑わなかった当時の自分にとっては、人生で初めての挫折の瞬間でした。

安定な職をかじる空っぽな自分

競輪選手になる夢を断念してからは、安定した生活のために消防士になる道を選びました。一般的に厳しいと言われる消防士の仕事ですが、それまでのサッカーや競輪選手への過酷な練習のおかげで精神的・肉体的にはタフだったこともあり、比較的すんなりと仕事に馴染めたように思います。

小神野貴之

消防士時代は、与えられた仕事に対してはしっかりと責任感を持って取り組み、周りの人たちからも一定の評価をいただくことが出来た一方で、「競輪選手の夢を諦めるという選択は本当に正しかったのだろうか」という苦い気持ちが常に頭の片隅にあり続けました。

職場は良い人も多く、居心地も決して悪いものではなかったのですが、頑張っても頑張らなくても給料は同じという公務員の評価制度の中で、少しずつ使命感や働くモチベーションが自分の中で失われていきました。

この頃には、厳しくも愛情をもって見守ってくれていた祖母も、既にこの世を去っていました。

公務員からの転職を決意、しかし一般企業はそう甘くはなかった

結局、6年間は消防士の仕事を続けたものの、このまま惰性で生きていくことに嫌気がさし、とある投資用不動産会社に転職することに決めました。公務員とは違って、自分の結果が給料に反映されるという仕組みに憧れたからです。

転職した当初は、メールや電話対応など、一般企業ではごく当たり前の仕事の全てが未経験だったこともあり、慣れるのにとても苦労しました。それに加えて、周りの同期達が次々と売上を上げていく中、自分だけがしばらく売上ゼロだったことも、劣等感や焦りの気持ちに拍車をかけていきました。

当時の会社が売上至上主義的な文化だったこともあり、上司から何度も問い詰められ、叱責される日々が続きましたが、半年間が経過したある時、たまたま自分一人で行った商談が上手く進み、初めての契約を取ることができました。その時に学んだことは、焦って売ろうとすればするほどお客様は逃げていく一方で、相手の話にしっかりと耳を傾け、望んでいることを適切なカタチで提供することができれば、自然と営業成績も上がっていくんだということです。

そのことに気付いたのが分岐点となり、それからの2年間はずっと営業成績1位を記録し続けました。

私の人生に寄り添う、大切な妻への告白

ちょうどその頃、プライベートでも変化がありました。消防士時代から付き合っていた今の妻と結婚をしました。妻は、私が消防士を辞めることにも反対することなく、常に私を信じてついて来てくれました。たまに厳しい時もあるけれど、妻は面倒見がよくて愛情深く、誰よりも私のことを理解してくれる人です。現在は5人の子供の母親(2022年10月現在)として、家庭を支えてくれています。

ただ当時の私は、仕事がとても多忙だったこともあり、なかなか家庭を顧みることができていませんでした。いつも帰りが遅くて自分勝手で、そんな自分を子育てもしながらサポートしてくれた妻には、本当に迷惑をかけたと反省すると同時に、感謝の気持ちで一杯です。普段は恥ずかしくて面と向かっては言えませんが、いつも子育てが大変な中、自分を支えてくれて本当にありがとう。

いまの自分があるのも、頑張れるのも、あなたが居てくれるお陰です。

小神野貴之

新たな課題と、自分の可能性への挑戦

そんな仕事漬けの日々を過ごしていた私ですが、どうしても心苦しいことがありました。それは、売らなければならない物件が既に決まっていて、お客様が本当に欲しいものを提供できなかったということです。それでも「小神野さんだから」と言って契約してくださるお客様がいたのはとても有難いことでしたが、もっとお客様のニーズに合った提案をしたいという思いは、日に日に増していくばかりでした。

そんな中、偶然見かけた求人広告で、ストレイトライドの存在を知りました。広告内容を見た時、とてもショッキングだったのを今でも強く覚えています。というのも、私の中での投資用不動産会社のイメージは、気合や精神論、厳しいノルマといった過酷なものだったのですが、そこに書いてあったのは、それとは全く正反対の内容でした。

気になった私は早速会社のホームページを探して見たところ「どうやら本当に、自分がこれまでイメージしていた不動産会社じゃなさそうだ」と強い関心を抱くようになりました。当時在籍していた不動産会社では、販売図面1枚だけで営業に行くスタイルが当たり前だったのですが、IT✕不動産を掲げるこの会社に入れば、もっと自分の可能性を高めることができるのではないかと思い、応募することに決めました。

小神野貴之

自分のイメージする不動産会社とは違った

実際に入社して感じたのは、求人広告で見た内容の通り、本当に自分のイメージする不動産会社とは違っていたということです。厳しいノルマや大声で叱責するような上司もいないし、全員がそれぞれの信念をもってワクワクしながら仕事に取り組んでいました。もちろん足の引っ張り合いも、いがみ合う派閥もありません。そんな会社があることに衝撃を受けました。

それに加えて、ストレイトライドには心から尊敬できる先輩たちがたくさんいます。本気で自分という人間と向き合ってくれて、成長のための的確なアドバイスをもらうことができるのは、本当に恵まれた環境だと感じています。

これからの新しい世代へ受け継ぎたいこと

入社からしばらく経過し、少しずつ今の仕事でも成果がついてくるようになりました。新しい世代の後輩たちも入ってきてくれて、自分の知っていることや日々感じていることを共有しながら、お互いに切磋琢磨する日々を過ごしています。

私のこれまでの人生を振り返ると、サッカーを通じて『努力すれば報われる』ことを学んだ学生時代。その認識を粉々に打ち砕かれた競輪時代。自分のあり方を必死に模索した社会人時代と、今思えば本当に色々なことがあったなと思います。

その途中で何度も挫折し、心が折れてしまったこともありました。そんなときは、今は亡き祖母との思い出や、いつも側にいてくれる妻や子供たち、そして温かい言葉をかけてくださるお客様の存在が、私にとって大きな心の支えとなってくれました。

次は、私が恩返しをする番です。どんなことがあっても絶対に見放さない。かつて祖母が注いでくれた無償の愛を、今度は自分が新しい世代に受け継いでいきたいと思っています。

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