加藤 祐太副主任 不動産投資コンサルタント
孤独だった過去が、営業としての能力を育ててくれました。

私にとっては普通の、少し複雑な日常
神奈川県の三浦半島にある葉山という町で生まれ育ちました。母とは2歳の時に離別し、父もずっと家を空けていたので、当時同居していた祖母の養子となり、祖父母と、父の弟である叔父と私の4人家族の家庭で幼少期を過ごしました。
当時の実の父との記憶はほとんどありませんが、父が海の家を経営していたこと、幼稚園の時にディズニーランドに連れて行ってもらったことだけははっきりと覚えています。ただ、父の会社が従業員とのトラブルを起こし、知らない人が家にたくさん来たこともありました。
そのような家庭環境だったこともあり、しつけは主に叔父がしてくれていました。叔父は私に対して実の子供のように愛情をもって接してくれましたし、私も尊敬の念を込めて「おにいちゃん」と呼んでいました。ただ、小学校に入った頃から叔父のしつけがとても厳しくなり、子供ながらに身の危険を感じるほどの指導を受けたこともありました。
その頃は、周りの大人を怒らせないように、なるべく自分の部屋に閉じこもり、いつも大人の機嫌を伺っていました。その時の経験が、人一倍感情や場の空気の変化を感じ取る能力を養ったのだと思います。
小学校に入ると、孤独だったそれまでの世界に一筋の光が差し込むようになります。同級生たちと日々の生活を送る中で、少しずつ友達もでき、学校に行くのが楽しいと思えるようになりました。自分のことを認めてくれる友人達がいる、そんな日々に幸せを感じていました。しかし、幸せな日々は、長くは続きませんでした。ある出来事をきっかけに、人間関係に大きな亀裂が入ることになります。
ある日、私はクラスの仲間たちとの遊びの約束を破り、自分だけ他の場所に遊びに行ってしまいました。するとそのことを知った友人達が激怒し、そこから私に対するいじめが始まったのです。
一緒に食事を取る友人もいなくなり、いつも私だけがグループから除け者にされました。ひどい言葉を投げかけられたこともあります。楽しかったはずの学校生活は、一転して地獄のような日々へと変わりました。ふと、公園の遊具から飛び降りてしまおうか、それなら楽になれるかもしれないと考えてしまったこともあります。そんな苦しい小学校時代でした。

初めて満たせた自己承認欲求が泡のように弾ける
中学に入ると、人間関係も大きく変わり、少なくとも学校内でいじめが起きることはありませんでした。小学校時代のいじめっ子たちは、相変わらず登下校時のバスの中でちょっかいを出してきましたが、ある時急に殴りかかられたことがきっかけで警察沙汰となり、全員から謝罪を受けることとなりました。それ以降、いじめはピタリと無くなりました。
元通りの明るい学校生活を取り戻した私は、その頃から野球に打ち込むようになりました。地域のクラブチームでピッチャーに選ばれた私は、来る日も来る日も素振りやシャドウピッチングに明け暮れました。まさに野球漬けの日々と言っても過言ではありません。
そんな努力の甲斐あってか、中学2年の時に野球の特待生の話が舞い込んできました。その時は、自分が認めてもらえたこと、高校でも好きな野球ができるということに、心が躍る感覚を今も覚えています。当時の私は、明るい高校生活への夢と希望で胸がいっぱいでした。
しかしながら、この特待生の話は水泡に帰すこととなります。中学2年の秋、ピッチャーにとって最も大切な存在である肩を壊してしまったからです。この時の私は、文字通り絶望の淵に突き落とされました。毎日何もすることが無く、ただただ空虚な日々を過ごすしかありませんでした。結局、野球の夢は諦めて、一般の高校に進学しました。

社会という大きなステージ
高校では昼夜問わず勉学に励む日々を過ごしました。大学に進学する道もあったのですが、それよりも社会に出て活躍したいという想いが勝ったこともあり、太陽光の蓄電池を販売する飛び込み営業の会社に就職しました。来る日も来る日も一軒家に飛び込んでは営業をする生活に、何度も心が折れそうになりましたが、それでも何とか食らいつき、ようやく2カ月目にして初契約を獲得しました。そこで自信を付けた私は、大きな営業成績を収めるようになり、3ヵ月目で新人賞受賞、会社でも歴代最速のペースで月給100万円に到達しました。
その後も2ヵ月連続で営業成績1位を達成し、社内でも期待の星として目をかけてもらってはいたものの、毎朝7時に出勤して夜中の1時に帰宅するという過酷な生活に疲れてしまい、もっと効率的な働き方で稼ぎたいという思いが募って、退職を決断しました。
1社目の会社を退職してからは、生命保険や建設会社など、様々な職を転々としましたが、どれも長続きしませんでした。特に大きな志もなく、生きていくためにとりあえず働く、そんな日々でした。
「今のままでは良くない」本気でそう考えた私は、いったい今の自分に何ができるのかということを徹底的に自問自答しました。過去の自分を振り返る中で至った結論は、やはり自分には営業しかない、営業の仕事を極めたい、ということでした。当時から相手の少しの感情の変化も見逃さず、周りの空気を読む能力は人一倍長けていました。そうして応募した中の一社が、ストレイトライドでした。
面接に臨むにあたって、自分の転職回数が多かったこともあり、正直採用してもらえないのではないかという不安はありました。それでも、一次面接で会った代表の落合に、自分の経歴や悩み、強い想いを全て素直に打ち明けたところ、しっかりと理解してもらうことができました。そして、営業にとって重要な「感情を読み解く能力」を評価され、入社が決まりました。入社してから、当時他にも100人近い応募者がいたと聞かされ、とても衝撃を受けたのを覚えています。

ようやく見つけた自分の居場所
ストレイトライドに入社して最初に思ったのは、自分が想像していた不動産営業とは全く違うということでした。一般的に不動産営業と言えば、気合と根性でガツガツ営業するようなイメージがありますが、ストレイトライドの場合はそういうことが一切なく、温かくも合理的な営業スタイルが徹底されていました。そういう意味では、営業というよりも、コンサルと言う方が近いかも知れません。
最初は慣れないことばかりで大変なこともありましたが、「ここで頑張らなければいつ頑張るんだ」という気持ちで、一生懸命先輩に付いていきました。どれだけ失敗しても、決して見捨てることなく本気で自分に向き合ってくれる先輩には、心から感謝しています。
入社からしばらく時間が経ち安定して契約をいただけるまで成長することができました。お客様からは「加藤さんの提案なら信じるよ」と温かい言葉をいただくこともあり、その度にこの仕事をやっていてよかったなと心から社会で働く心地よさを感じます。不動産は、人生で一番高い買い物だと言われます。それだけの高額商品を扱う以上、お客様ひとりひとりの人生やお金をお預かりしているという緊張感で、日々の仕事に取り組んでいます。

彼らと一緒だったら、ずっと楽しい
幼い頃、大人の機嫌を損ねないように、自分の部屋に閉じこもっていました。人と比べてしまうと少し「寂しい」と言える、それが私の日常でした。
思い返せばそれからの人生は、自分の本当の居場所を探すための、暗く長い旅路でした。真っ暗で目指すべき方向も分からず、ただただ雨風に打たれながら、たったひとりで前に向かって歩くしかありませんでした。
でも、そんな孤独な旅は、ここで終わりです。
今は、自分を迎え入れてくれる温かい居場所、本音で話せば理解してくれる、互いに成長を喜び合える最高の仲間がいます。彼らと一緒だったら、ずっと楽しいはず。
もう後ろを振り返ることはありません。
自分の可能性の限界にこの会社で挑戦し続けたいと思っています。

成功への王道ルートでは到達できない世界
よく、若者の苦悩を表現する歌の中で「決められたレールの上を走りたくない」といったニュアンスの歌詞が出てきますが、僕を含めた今の若い人たちにとって、これはあまり共感できるものではありません。というのも、ぽっと出のYouTuberがいきなり何億円も稼ぐような世界の中で、かつて成功の道と言われてきた「王道ルート」が、何ら魅力的に映らなくなってしまったからです。何が成功するか分からない、これまでの常識が通用しない世界になりました。
だから、今の20代前半くらいの人達の中には、目指すべき目標や指針が無くて、迷ったり苦しんでいる人も少なからずいると思います。そういう自分も、かつてその中の1人でした。
もしそうやって悩んでいる人が目の前にいたとしたら、「例え今のあなたに何もなかったとしても、生きていれば何でもできる」と伝えたいと思っています。無理して偽りの夢や目標を作り出すのではなく、いつか自分が「本当にやりたい」と思えることに出会った時に、全力でぶつかって行けばいい。そんな日がきっと来るから、一緒に頑張っていきましょうとお伝えしたいですね。