古谷 太陽不動産投資コンサルタント

交通事故で全てを失った私が、不動産営業になるまで。

私の家は元々軍人家系で、先祖には大日本帝国陸軍の少将がいたり、叔父は元海上自衛隊のパイロットで、父も母も元々陸上自衛官でした。家族からはよく、自衛官人生は厳しいと聞かされておりましたが、私は素直にそれに憧れていたのと、自分の能力を試したく、自衛官にとってのいわゆるエリートコース、高等工科学校を卒業し、防衛大学校に進学する、という道を極自然に選ぶことにしました。

防衛大はみんな同じ「高い志」を持った学生が多く、唯一そこでしか学べない国防の知識を習得するために、非常に高いレベルの教育を受けました。中でも印象的だったのは、毎年学校から一名のみが選抜される、ウエストポイント(アメリカ陸軍士官学校)への留学経験でした。そこでは訓練はもちろんのこと、座学や試験もすべて英語でした。超短期間で英語を習得し(TOIEC940点)、無事に留学を終えることができました。
高等工科学校から防衛大に進学した末の自衛官は、エリートが約束されており、私はそういった道のりを順調に歩んでおりました。
順風満帆にエスカレーターを進む中、将来のキャリアを想像した私は、自衛官になった後は、パイロットや現場の指揮官ではなく、国際政治の分析など、頭脳系の裏方として日本国民のために職務を全うできればなと、漠然とですがそう考えておりました。

ここで私は大きな転機を迎えることになります

防衛大3年生の1月、休暇中に不慮の交通事故に会い、頚椎骨折という後遺症が残る大きな怪我を負ってしまいました。対向車線を走る車が、雪でスリップし、私の乗る車に衝突したのです。

自衛隊では、24時間監視された集団生活、山中での深夜の偵察活動、機関銃の銃弾の下をほふく前進で潜り抜ける訓練などを経験し、それに耐え抜く精神力が私にはあると自負しておりましたが、この交通事故の経験は正に「壮絶」そのものでした。過去にしてきた努力、勝ち取ってきた功績、将来性、そのすべてが自分の身体と共に崩れて行きました。

事故の怪我の痛みと精神的なショックから、心身ともに疲弊し、もがき苦しむ毎日を送り、このままでは本当に自分の人生が終わってしまうという危機から、その時の私は「死に物狂い」でした。自衛官を諦め、一般社会では唯一興味のあった「金融業界」へ転向すべく、ゴールドマン・サックスに就職の応募をしたところ、書類選考が通り、1次試験ではグループ面接、2次試験から4次試験は個別面談、なんとすべて合格し、内定をいただくことができました。ゴールドマンの採用試験では、頭の回転を確かめる「フェルミ推定」、一般企業の会計資料を読み解き、経営改革を提案するレポート作成など、まったくの未経験ながら、私の能力のすべてを出し尽くし、内定の連絡をもらった直後には、泣きながら母親に電話し、母親もすごく喜んでいたのを今でも良く覚えています。

事故の怪我は、そんな甘いものではありませんでした

普通の生活はできていたものの、自衛官としての道はもちろんのこと、ゴールドマン・サックスの激務に耐えられる状態とは言えず、非常に体調が悪い状態が続いた結果、防衛大こそなんとか卒業はできたものの、ゴールドマンの内定を辞退することになってしまいました。
幹部自衛官として、または世界的一流企業の金融マンとして、その両方の将来をほぼ同時期に諦めるしか無い状況を突きつけられ、何年続くか分からないリハビリ生活が始まります。当時22歳でした。

それから半年間は、すべてを失ってしまった喪失感に苛まれながら、整骨院に通い治療に専念し、秋頃からようやく体調が少し戻ってきて仕事をしようと思い始めた時、私は人に教えるのが好きだった事から、当時住んでいた平塚で、塾講師のアルバイトをはじめました。
私は元々、座学を得意としておりましたので、小学生/中学生/高校生、さらに浪人生に対して、全教科を教えていました。過去の規律の厳しかった世界から一変、「子供」という自由な対象を教育する面白さを知りました。当然といえば当然な、面白い話なのですが、子供に「◯◯をやって」、と伝えると、驚くことに「めんどくさい」という返事が返って来ます。過去の私の環境では「めんどくさい」という返事は絶対に許されず、めんどくさいと考えること自体、存在しえない発想です。

また、「一人の人」に対して注力するという教育も受けてこなかったですし、子供と改めて「個性の大切さ」を思い出しました。
これまでの人生で受けてきた、いわゆる自衛隊式の詰めた教育ではなく、私は敢えて、部活の話や学校の先生をどう思っているか等の勉強とは直接関係のない話をしてあげることで、子供は自然と意欲的に勉強をするようになりました。当時は子供に「勉強をさせたい」という親御さんからのニーズのもと動いていましたが、意思決定者は子供、そのニーズを考えると、とてもやりがいを感じました。

その頃の私は毎日がすごく楽しく、教え子の成績が上がったときは、涙が出るほど嬉しかったです。しかし、そんな楽しい生活も長く続ける事はできません。将来に対する不安から、このまま塾講師のアルバイトを続けても良いのかと自問自答する毎日でもありました。

そして1年程が過ぎ、体調も回復傾向にあることから、転職活動を再開、大手証券会社からの内定の打診も受けておりましたが、個の自由を重んじる社風のストレイトライドと出会い、入社に至ります。

一般社会のギャップとの苦悩

自衛官を志す頃に「規律社会」に馴染んでいた私は、ストレイトライドの「自由」やB2C営業の「自発性」という点で、私は社会との大きなギャップがあったと今になって思います。

私は自由で良いんだ!と開放された気持ちになりました。

入社してからは、ひとりひとり自分の机を与えられて別々に動いていること自体が私にとっては新鮮で、東京の新宿で、都会中の都会で、そこで働いてるだけでかっこいいイメージがあったので、そこで働いている自分がいる、ということに驚きや喜びがありました。

人と打ち解けあって話す環境、お客様との関係を構築することの楽しさ、社内のメンバーに対しても上司と部下の関係が大きく変わり、高校と大学まで、ユーモアを言うこと自体許されない環境だったので、その差が大きく驚くことばかりでした。

なかなか最初の頃は自分自身の心の壁を取り払うのが難しく、社内のメンバーが仲良くしているのにワイワイ盛り上がれないときに居心地が悪いなと思ったり、自分の心の垣根を超えて仲良くしてくる、相手が自分の領域に入ってくることで、自分が思う相手との距離感の違いが、ストレスに思ったり、いわゆる「チャラい」と思ってしまったり、一般社会ってこういう感じなのかな、という過去の組織との大きなギャップを感じて悩む事もありました。

こんな自分に、いつでも、何度でも、社内のみんなは心を開いてくれます

少し浮いていたかもしれない自分は、このように考えていました。

・今までは自分が苦しんでいることをなるべく打ち明けない人生で、思ったこと、嫌なこと、恥ずかしいことをさらけ出さずに我慢していた。

・今までは同期がライバルという関係でやってきたので、無意識に敵、争うべき相手、そういう採点のされ方をされるかもしれない。そこを意識的に変えるようにした。そこを頑張っていくようにした。

・シャットアウトして自分が閉じこもる方法を選んだ方が楽だった。しかし先輩が持っている「自分に無いもの」を選んで真似した方が人間的にも成長できるし、売上も上げられるかもしれないと思った。

・先輩が楽しそうに話して盛り上がっている。盛り上がっている先輩の売上がとても高い。それを吸収すれば自分も売り上げられると感じた。

・心から信頼できる仲間が出来た。「苦しい」ということを安心して話せて信頼できるようになった。

・ここで売上目標を初めて達成することができた。

・交通事故に遭っていなかったら、きっと大切なことに気づけていなかった・・・。
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私の過去のお話に長くお付き合いくださり、ありがとうございます。
こんな自分にも将来の明確な夢ができ、一般社会とのギャップも無くなりつつあります。
(会社の皆からも、そのように言ってもらえます。)

将来の自分

・40歳までに高所得層の仲間入り、子供二人、犬1匹の家庭を築く。
・奥さんは笑顔が素敵で落ち込んだときに一緒にいて元気になれる人。
・家事分担は料理はできないからやってほしい。
・節約が得意なわけではないので家計は奥さんに任せたほうが良い。

このように、言わば普通のビジネスマンの、理想像を思い描いています。
過去に張り詰めた過酷な環境に長く居たもので、「自由」で有ることの喜び、一般社会でビジネスマンとして成功し家庭を築いていくことの「幸福感」を知りました。

これらを教えてくれたストレイトライドの仲間たちを、命を掛けて守りたいと思っています。

お客様の定めた目標を完遂します

自分自身が正しく理解した目標なら、それを完遂する達成力には自信があります。
お客様に敬意をもって情報をお伝えし、定められた目標、与えられた職務を完遂します。

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